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*本掲載内容は「越前若狭歴史回廊(本館)」歴史の見える風景の「禅林寺」の再掲です。
禅林寺(福井市 徳尾町)
越前で客死した戦国期随一の学者清原宣賢が眠る
禅林寺は福井市の南端にあたる徳尾町の文殊山麓にある。福井県指定史跡である清原宣賢墓所として知られている。
開山は普済善救(ふざいぜんきゅう)【府中竜泉寺の開山通幻寂霊(つうげんじゃくれい)の門下】で応永12年(1405)徳尾の白沢永幸(びゃくたくえいこう)に招かれて当寺を創立した。
当代随一の国学者、儒学者と評された清原宣賢(のぶかた)は、京・吉田神道家の吉田兼倶(かねとも)の子として文明7年(1475)に京に生まれ、清原宗賢の養子となり儒学者の道を歩む。後奈良天皇の侍読(教授)も務め、大永2年(1522)侍従、同6年には正三位となったが、享禄2年(1529)出家した。
朝倉氏とは関係が深く、4代孝景の招請に応じて何回かにわたり越前に下向、晩年は一乗谷に居住し、ここで過ごした。
戦国四代となる孝景(戦国初代孝景にあやかって初代と同じ孝景を名乗った)の時代は、朝倉氏の治世が一番安定した時期で、室町幕府内での地位も、享禄2年の将軍御供衆にはじまり、天文4年には塗輿御免、その3年後には御相伴衆に列した。
また、一乗谷には多くの僧侶、学者、連歌師が京から訪れたが、中でも清原宣賢は朝倉氏やその家臣に積極的に儒学や「日本書紀」などの古典を講義して、一乗谷文化に大いに貢献した。
天文12年には孫にあたる枝賢(しげかた)が北国見物をかねて一乗谷の宣賢を訪れたが、その時の旅日記『天文十二年記』は、当時の様子を伝える貴重な資料となっている。
4月20日都を旅立ち、24日に一乗谷に到着した枝賢は宣賢と会った後、朝倉館にも参上、29日には当時の一乗地区の「繁華街」であった阿波賀を見物し、5月5日には府中に総社の祭を見物するため出かけている。一乗谷に戻ってからは祖父の講義を手伝ったりもしているが、これ以降の部分は現存しない。
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▼清原宣賢墓 |
▼禅林寺山門、本堂 |
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天文19年(1550)7月12日一乗谷で客死し、当寺に葬られたという。
昭和48年には朝倉氏遺跡調査研究所が実施した一乗谷調査の際、八地谷からも清原宣賢の一石五輪塔墓碑が発見されている。
寺は近世に入って長松院(結城秀康生母)の保護を受け、秀康の家臣梶原氏の菩提所ともなり、現在も境内には梶原氏およびその兄弟の五輪塔が残っている。 |
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