明治初期における道内駅逓所の運営
1 札幌駅逓所
札幌駅逓所(通称札幌本陣)は、開拓使本庁所在の北海道最大規模の駅逓所として明治4年3月に開設された。
明治4(1871)年といえば、岩村判官が札幌に赴任した年で、札幌の定住人口621人(211戸)といった北海道開拓がようやく動き出した年であるが、しかし、周辺の月寒・白石等の人口は急増しつつあった。この時期、札幌の定住人口は極めて少ないといっても、それは表面の状況で、実際には浮遊人口が定住人口を大きく上回るといった特異現象の見られる状況にあった。
この時期の駅逓関係としては、開設前年、これまで幕府が経営していた「虻田有珠牧場」から駅馬を札幌へ移すことを条件(頭数不詳)に開設しようとの計画であった。
札幌駅逓所は、明治4年3月、木村某を取扱人として開設したものの、開設後、短期間にたびたび移転し、その都度、駅舎の改築を重ねたうえ、取扱人も長続きせず短期間に更迭するなど、経営は至って不安定であった。
本庁の地元だけに開拓使役人の目が行き届き過ぎて指導過多に至ったせいでもあろうか。しかも、駅逓所は明治22年4月25日には廃止になるといった短命に終わったものであった。
(1) 沿革(開拓使事業報告による)
ア 明治4年3月、渡島通ニ官舎1棟ヲ築キ本陣ト称シ木村某ニ貸与シ駅逓及逆旅ノ事ヲ取扱ハシム
イ 7年中同所脇本陣ニ移ス駅逓所手当年金250円定傭人足賃年金672円取扱月給金6円ヲ給ス
ウ 9年10月年金600円ト改ム爾来屡移転シ14年5月南2条西1丁目ニ転置ス
(2) 経費
明治7年994円、以下8、9、10年は同額である。
注、(1)アに「逆旅」とあるのは、江戸時代からの旅行用語で、「ぎゃくりょ」又は「げきりょ」と読み、旅客を逆(むか)える所、はたごという語意である。
これは、事業報告記載の経過であるが、一応、以後の記載事項との対比上の必要から挙げたものである。
事業報告の明治7年以降同10年までの4年間は同額の994円であるが、以降漸減して明治15年には184円と他の駅逓と大差ない支給額に減少している。
この頃になると、明治13年11月には手宮・札幌間に鉄道が開通しているし、札幌周辺の農家を中心に馬匹も増加し、市中に運送、旅客業者及び宿泊業者も増加したことから、公営の駅逓に頼る必要がなくなってきた結果廃止されたものであろう。
(3) 札幌本陣の駅舎売りに出る
明治6年に至って、開拓使から次の通達が出ている。
止宿所之義当初石黒林太郎本陣守リ相勤候之節辛未十月ヨリ壬申十月迄請負金千九百八拾三円余御下ヶ渡シ相成候処壬申十一月御任セ相成候以来請負金御廃シニ付月々不足金相償候上時々修理ニテ昨十一月以来弐千七百円余リ損金ニ相成苦情不少趣無余義相聞候ニ付格別ノ御詮議ヲ以弐千七百円ノ半数ニテ千参百円無利息十ヶ年賦ヲ以テ御貸シ渡シニ相成リ止宿所ニ於テ質渡世致サセ申度当市中貸借不相当之高利ニテ不融通宜敷下方難渋之趣ニ付一ヶ月百円ニ付三円五拾箋之利ヲ以テ六ヶ月括リ質渡世致サセ候間ハ月々四拾五円余利殖ニ付止宿所ニ於テモ月々活計之不足ヲ補ヒ兼テ下方融通ニモ相成リ申候所存候ニ付此段奉伺候也
明治六年十一月廿七日
(下ヶ札)
駅所並止宿所当分之中壱ヶ年金五百円為手当被下候事
但受取方会計局江打合候事
札幌本陣(止宿所・駅逓所)は、明治4年10月、初代木村某に代えて石黒林太郎に請負わせて明治5年11月までの1年1か月にわたって本陣守を命じてきた。この間の請負金は1,983円余であるが、今回、この契約を廃棄するに至った。
ところが、この1年1か月に経営上の赤字がかさんだほか、たびたび駅舎を修理するなどで経費が増し2,700円余の損金が出たと同人から苦情を申し立ててきた。
その赤字救済のため、格別の詮議をもって損金2,700円の半額、1,300円を無利息十か年賦をもって貸付け、止宿所運営を続けさせたい。
現在、札幌における貸借金の利息は高く、1か月100円に付き3円50銭(3分5厘)であるので、この貸付利息をもって6か月質業を営業させると、毎月45円の利益が出る。この利息をもって止宿所経営の赤字を埋めることが可能と思う。
という上司への伺い案に対し、決裁の段階で否決され、これに代って、取扱人の手当を1か年500円に増額するという案で決着した。
また、古文書によると、本駅逓所は、開設時、木村某に請負わせたが、僅か7か月で石黒林太郎に契約替えになったことが明らかになった。
(4) 旧本陣駅舎の売却決定する
札幌本陣は、石黒林太郎の経営中駅舎を新築したので、不要となった旧駅舎を売却することになった。
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御 請 書 昨八日御呼出ノ上旧御本陣御払下ケノ件他方願人モ御座候得共私店之儀ハ兼テ御用相勤来候廉ヲ以テ御懇之御喩達ヲ蒙リ深奉感致候就テハ金七千両十ヶ年賦 |
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朱「願上通」以書付奉願上候 |
前段は、嶋田(蔦田)某は開拓使から呼び出しを受け出頭したところ、札幌旧本陣の駅舎を払い下げるので買い受けるよう指名を受けた。嶋田側は、開拓使が示した払い下げ価格7,000円10ヶ年賦の条件を受けて一応検討した結果、示された「案」をのみ、これを買い受けることとなり、その旨、請書を提出したのであった。
後段は、開拓使からの申し入れに対し、開拓使の条件どおり下げ渡しに応ずる旨、正式に回答した。
それにしても、本陣開設2年にして売却するに至った経緯はどうであったのであろう。
札幌本陣は、短期間に数回移転しているが、筆者は、これらの事情を詳しく調べたことがないので明らかに承知していないが、一般の家屋と違って駅舎、厩舎止宿施設のほか、常傭人足7人、駅馬も多数使役していたはずであるから、単に、移転といっても大変な手数と経費を要したはずである。特別な事情があったのであろう。
なお、嶋田八郎左衛門なる人物は、当時、開拓使用達として活躍していたが、明治8(1875)年1月、取扱いの向き宜しからずとして他の3名と共に、下渡金の取扱いを免じられている。
さて、明解な史料は見当たらないが、前記事業報告にも、「明治7年中同所脇本陣に移す」とあるから、このとき、本陣と脇本陣とを合併し、本拠を脇本陣に移したため、旧本陣の施設は不要となり、売却することにしたものと思われる。
ここでいう本陣、脇本陣といっても、本州でいう本来のそれと違って、北海道においては、駅逓とその付属通行屋との使い分け程度のものであったと認められる。
(5) 明治7年時の示達経費
さて、前述の明治9年布令録によると、第1号案として、札幌駅逓所の明治7年における経費として、次の記録がある。
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(朱) |
この記載事項は、前記事業報告の沿革に掲げた給付金及び経費の項は、この布令録を資料として記載していたものであることが分かる。
しかし、駅逓所の経営は請負制であったことから開拓使からの給付を受けた事項のみ掲げられていて、支出関係については明らかにされていない。要するに、取扱人の責任による渡切経理であった。
なお、この給与金の内訳は、駅逓所が使用する日用品、駅舎の小破修繕、止宿者飲食費の補助等に要する経費として1か年250円、定傭人足7人分の給料等として627円が給与されている。ただ、単純に7人分の給料として付与されたものと考えると、1人当たり97円(月12円)の割となり、当時の労賃からみて過大であると認められ、別項に記載のとおり馬匹の飼料費、人馬継立に要する経費も含まれていると思われる。
また、取扱人の手当として月6円が支給されているが、これは後述のとおり、他の駅逓所の取扱人の月給の多くも6円であるから、経営規模の大小に関わりなく、一律に同額が付与されたものである。
ただこの金額は、人足の給与に比較して半額程度である。人足雇傭経費の方は、人足賃のほか駅馬飼育、飼料、馬具等に要する経費も含まれているであろうから全額人足の給与ではないことは、前述のとおりである。
以上、開拓使から支給されている経費は3項目に分けて付与されているが、これは名目であって、もちろん相互に流用して使用し支出されることは当然のことである。
しかし、前述の石黒林太郎による請負期間中は、1年1か月間に2,700円もの欠損を生じたとしていることからみて、予想に反する支出増があったのであろう。
このような経過で、努力を要するわりには功少なく、実益が伴わないものであった。
さて、札幌駅逓所の経営の収支は、以上のとおりであるが、他の開拓使管下駅逓所へ経費を示達し、これを受けた駅逓所ではどのように支出したのか、また、駅逓所の経営上、その経費はどのような位置にあったのかについて次号以下においても究明を図っていくことにしたい。